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着物を日常着とする為に

 最初に断わっておきたいのだが、私は高価な着物を否定するものではない。

 しかし、たかが「衣類」である。
 其れを着用するのに「〜あらねばならぬ」等というのは愚の骨頂である。
 趣味嗜好としての集まりで、上記が如き物言いをするのは理解出来る。
 或いは、正式な晩餐会の様な場所に招かれた場合も決まり事と考えて良い。
 だが、日常の場でかような言葉を発するのは不適当であろう。

 さて、着物を日常的に着粉す事を考える前に、何故現代の庶民と着物の間に溝が有
るのかを考えてみる事にする。

其の一 価格が高い

 着物が高い理由は十分に理解出来る。

 先ず第一に、手間が掛かり過ぎるのである。
 ほぼ全ての過程で人の手を経なければならない。
 が為に、手間賃が過分に掛かってしまうのである。

 亦、呉服屋の経営面から考えてみる事も可能である。
 私は呉服屋の内情に就いては全く存じ上げない素人である。
 従って以下は全くの推察である。
 首都圏の主要幹線の駅で下車し駅前商店街を漫ろ歩きをしてみると、必ずと言って
良い程、呉服屋が店舗を構えている事に気付く。
 しかし、客で賑わっている光景を目撃した事は今だ曾て無い。
 では、彼等は如何にして経営を支えているのだろうか?
 和服を日常着にしている者が殆どいない状況では、薄利多売と言うのは先ず成立し
ないであろう。
 恐らく、成人式、七五三等、多くの人が着物を欲する時期が営業の主力となる事と
推察する。
 年間の売り上げ点数が少ないのであれば必然的に粗利を高く設定せざるを得ない。
 結局、高利少売が基本になっているのではないか。
 そう考えれば一点が数拾萬円もの価格に成ってしまうのも道理であろう。

 然し、此れは「需要が無いから供給が無い」と言った物で、今後需要の高騰が見込
めない限りいずれ消え去ってしまう業種であると言える。

 少々脱線してしまうが、曾て人力を頼りに行って来た産業が、どの様な運命を辿っ
たかを考えてみて頂きたい。
 其れ等の産業は、社会の近代化に伴ってほとんどが廃れて行く事となったのである。
 工業化を果たす事が出来ず、結果人件費を削る事で存続を計る事を余儀なくされた。
 此の様な業種に職業的魅力を感ずる人は同好の士に限られ、広く門戸を開く物では
無い。 其れは、結局先細りの業種に成り果てる事を意味する。

其の二 着る機会

 確かに現代人は着物を着て出歩く事を余りしない。そう言った意味では着る機会が
少ないとも言える。

 然し、其れも本人の考え方次第である。
 着てしまえば良いのである。出歩いてしまえば良いのである。

 着物を着て出歩く事が禁じられている訳では無い。
 我が国の公共施設で、着物を着用して入場する事が適わぬ場所と言う物を、私は知
らない。
 着て歩く事に抵抗を感ずるのは偏に本人の問題であろうと考える。
 一つには周囲と異なる姿態をとる事に気恥ずかしさを感ずるのであろう。
 亦、現代は活動的であるが故に、着物の様な動き難い装束では入り難いと感ずる場
所も多々有る。
 然し、江戸や明治の人々が活発に動く事が無かった訳では無い。
 寧ろ今以上に動いていたのである。
 彼等の生活は歩く事が基本である。
 現代人より遥かに歩いていたのである。
 では、彼等は其の際に如何なる姿をしていたのであろうか?

 着物と言えば長着や羽織しか思いつかない方が可笑しいのである。
 短着も有れば筒袖も有る。
 股引きも現代では下着の様に見られているが、本来人目に晒すことは悪い事では無
かった。
 堂々と尻っぱしょりをしてしまえば良いのである。

 以上、今回は二点に就いて考えてみた。

 其の二は個人の考え方の問題であるから良いとして、問題は其の一である。

 和服を衣類として観た場合、洋服に比べ圧倒的に競争力が無い。
 競争力の無い業種はいずれ廃れて行くものである。
 何故競争力が無いのか、一つには需要の低さもあるがより重大な理由は、業界自体
が既に工芸の領域に入りつつある事であろう。
 一種、美術品を作る様な形で生産されている。
 流石に美術品や芸術品を日常着として着廻す事は難しいであろう。

 然し、其の一方で大手の企業が生き残りを賭け、必死で工業化を進めている。
 例えば、東レから発売されている絹の如き化繊。
 これは実に着易い。なまじな紬よりも着心地は良いのではなかろうか。
 しかも洗濯屋に出す必要もなく、自宅で簡単に洗うことが出来る。
 此れなど、日常着には最適であろう。値段もかなり手頃である。

 亦、大手呉服屋チェーンでは、化繊ではあるが仕立て上がりを壱萬円でお釣りが来
る様な値段で販売もしている。
 此れは、仕立てに機械や海外の労働力を導入する事で経費を低く押さえる事が可能
となっている為、販売価格も洋服並みになったのである。

 或いは木綿の反物であれば、参千円〜六千円で購入する事も可能である。
 其れを購入し、自らの手で仕立ててしまえば随分安く上がる筈である。
 決して無理な事ではなかろう。
 曾ては武家の子弟でさえも、裁縫が出来て始めて一人前と見られていた位であり、
男が縫い物が出来ないという事などは無いのであるから。
 まして日常着を目指すのであれば、其の位の事は出来て当り前なのである。
 ほつれる度に仕立て屋に依頼をしていては金が掛かって仕方が無かろう。

 今日の着物を取り巻く状況は、上記の如く大きく二分化されつつある。
 片や工芸品として、着る為と言うより寧ろ鑑賞用としての着物。
 此方日常着として着潰す為の着物。
 両者を上手に使い分けて行く事が肝要である。
 最も避けなければならない事は、どちらかに偏って考えてしまう事であろう。

追記 雅殿のコラムに応える。

 周囲の者の理解を得るという事が何故必要なのか、私には理解不能である。
 或いは、着物を着る事を是としない親兄弟等が居るという事自体、摩訶不思議であ
る。 其の様な者共には「貴様は日本人であるのか、西洋人であるのか!?」と一喝
して終いである。
 其れではいかんのか?(笑)

 着物が廃れてしまいつつある原因には様々あるが、一つには大東亜戦争の敗北と言
う物もある。
 敗戦に因って我が国の価値感は大逆転をした。
 為に、戦前の風習は全て悪しき物とする風潮が派生し、其の中に着物と言う「過去
の忌まわしき時代の衣服」が含まれてしまった。
 或いは、其処まで深い思惑では無く、単に周囲が着用していないからと言う勝手な
世間体から否定しているやも知れん。
 他の者と同じでなければ不安で堪らぬと言う様な輩は、無視して構わぬと私は考え
るが・・・

 尚、着るに際して「粋」と言う事は全く考える必要はない。
 粋とはそもそも意気であり、曾て花街で遊び慣れた者達が如何に着崩すか・・・つ
まり敢えて常識に逆らう事で流行りを生み出す事に苦心した事が大本である。
 従って、意気というのは当時の流行の最先端を走ることを指しており、庶民が普通
に着粉す場合は完全に無視して構わない物なのである。
 却って正式な場に出るときには野暮で有ることの方が無難であり、粋な姿等は正式
な場では排除されるべき物でさえある。

 今回は上記二点への応えに留める。

文責:練馬の「ま」 (匿名希望)


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この文章は、匿名希望、ということで、投稿されたものです。
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